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『一念多念文意』を読む(その150) ブログトップ

本文20 [『一念多念文意』を読む(その150)]

(13)本文20

 「凡夫」といふは、無明煩悩、われらがみにみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ、おほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの、御こころにおさめとりたまふがゆへに、かならず安楽浄土にいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚のはなに化生して、大般涅槃のさとりをひらかしむるを、むねとせしむべしとなり。これを、「致使凡夫念即生」とまふすなり。二河のたとえに、一分二分ゆくといふは、一年二年すぎゆくにたとえたるなり。諸仏出世の直説、如来成道の素懐は、凡夫は弥陀の本願を念ぜしめて、即生するをむねとすべしとなり。

 (現代語訳) 「凡夫」というものは、無明の煩悩が満ち満ちて、欲も多く、怒り、腹立ち、嫉み、妬むこころが多くまた絶え間なく押し寄せてきて、臨終の瞬間まで止まることがありませんが、それは水火の二河のたとえにあらわされています。このように浅ましい姿のわれらも、本願力の白道を一歩二歩ようやくの思いで歩んでいきますと、無碍光仏の光の、そのお心におさめとられていますから、必ず安楽浄土に至り、阿弥陀仏と同じように、あの正覚の華に生まれ、無上の悟りをひらくことができるのです。そのことをむねとしなさいと言うのです。それを「凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」と言っているのです。二河のたとえで、一歩二歩行くというのは、一年二年と過ぎ行くことをたとえています。諸仏がこの世にお出でになり、釈尊が悟りをひらかれたそもそもの本意は、凡夫が弥陀の本願を信じるようになり、そのままで往生浄土させようとすることにあります。それをしっかり受け取りなさいということです。

タグ:親鸞を読む
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