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いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ [『一念多念文意』を読む(その151)]

(14)いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ

 もう一度おたまじゃくしに戻りますと、おたまじゃくしは例外なく蛙になるということは、おたまじゃくしの本質は蛙であるということです。同様に、正定聚の本質は仏であると言えるでしょう。信心のひとはもうすでに仏にひとしいのです。
 とは言うものの、おたまじゃくしはおたまじゃくしで蛙ではありません。われらは凡夫で仏ではありません。親鸞はこう言います、「“凡夫”といふは、無明煩悩、われらがみにみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ、おほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」と。
 このひと言にもうグーの音も出ません。
 突然ですが、大平光代さんという方をご存知でしょうか。以前『だから、あなたも生きぬいて』という著書を読み、その何とも壮絶な人生に仰天したことを覚えていますが、その方が望まれて大阪市の助役として働いたときのことをこんなふうに述懐されています。
 「弁護士になってからは、いろいろな相談を受けていたんですけど、ひとりひとりを相手にしてもたかが知れている。助役のお話をいただいたときに、もっと広い範囲でお役に立てるかと思ってお受けしたんです。大阪の人たちに“大阪に住んでてほんとによかったな”と言ってもらえるような街にしたかった。でも、よくよく考えると、ほんとうは自分が人からよく見られたいだけやったんじゃないか…。大阪の人たちのためと言いながら、ほんとうは自分のためにやっていたことなんだ。こんなふうに思ったときに、『歎異抄』に書かれている“煩悩具足の凡夫”とは、自分のことだったという自覚がはじめてできたんです。」(『この世を仏教で生きる』)
 いっぱしの人間という顔をしているが、ほんまを言うと、人からほめてもらいたいだけやないか、ニセモノやないか、と思う。正定聚であることに気づかせてもらえば、本質的にはもう仏にひとしいと言うものの、しかしいかんせん「いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ」はこれでもかとやってきます。こうして「水火二河のたとえ」のとおり、「臨終の一念にいたるまで」、「かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみ」ゆくしかないのです。

                (第10回 完)

タグ:親鸞を読む
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