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『一念多念文意』を読む(その154) ブログトップ

知らないが信じるということ [『一念多念文意』を読む(その154)]

(3)知らないが信じるということ

 ものごとはそれを知っているか、それとも知らないかのどちらかで、知らないけれど信じるということはなくなったということ。
 あることを知っているというのは、それについて合理的に説明できるということに他なりません。先生が「これを知っている人は」と尋ねますと、生徒たちは「ハイ、ハイ」と元気よく手をあげますが、先生から「ではきみ、これについて知っていることを言ってみてください」と言われると、途端に口ごもる。知っているつもりだったのですが、いざことばにしようとするとうまく言えないのです。よくある光景ですが、さて、この生徒は「知っている」といえるでしょうか。これで分かりますように、知っていることは、程度の差はあれ、ことばで説明できなければなりなせん。
 さて、うまくことばにできない、したがって知っているとは言えないけれども、でも真実に違いないと思えることはないでしょうか。
 それは、いまのところうまく言えないけれど、理解が進めば合理的に説明できるようになるということではありません。そんなことはいくらでもあるでしょう。科学者たちは、未知の領域、したがってまだうまく説明できない領域にことばを届けようと日々努力をしているわけです。いま言っているのはそういうことではなくて、知ろうとしてもとうてい知ることはできないが、でも真実と思えることがあるのではないかということです。いまのところことばが届いていないのではなく、原理的にことばが届かない領域があるのではないかということ。
 カントはその領域のことを「物自体」とよびました。横道にそれるようですが、少し考えてみましょう。

タグ:親鸞を読む
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