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見えない力に背中を押されて [『一念多念文意』を読む(その158)]

(7)見えない力に背中を押されて

 その話題が出たのは喫茶店でコーヒーを飲んでいたときですが、そのような状況で「コーヒーを飲まされている」と言えるか。誰しも不自然だと思います。自分の意思で喫茶店に入り、何を飲もうかと考えてコーヒーを選んだのですから、「コーヒーを飲まされている」はおかしい。
 「生かされている」に真実があるとしますと、「飲まされている」もあっていいような気もするのですが、この表現はどうにもおかしいと思う。イスラム教徒のウエイターがうっかり皿を割ってしまったときに「この皿は神の摂理で割れるようになっていたのだ」と言うのと同じような不自然さです。
 では「させられている」がピタッとくる場合と、どうにも不自然な場合とに、法則的に分けることができるでしょうか。たとえば、自分の意思でそうしようと思うのではなく、誰かに命じられてやる場合は「させられている」が相応しいというように。しかし、自分の意思で喜んでそうしようと思うことでも、「させられている」が相応しいケースがあります。
 たとえば震災のテレビを見て、居ても立ってもいられなくなり、リュックに水の入ったペットボトルをたくさん詰め込んで被災地に向かう人。もちろん自分の意思(ボランティアで)で被災者のために支援活動をしようとしているのですが、しかし何か見えない力で背中を押され「こさせられた」と感じる。
 こうなりますと本人の意思があるかないかは決め手になりません。そもそも、何であれそれを「する」ときには、そこに自分の意思があります。誰かに命じられて「させられている」ことであっても、「そうせざるをえないからしようと思う」という意思があるはずです。つまりどんなこともそれを「する」のは自力であるということです。

タグ:親鸞を読む
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