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浄土思想の二つの流れ [『一念多念文意』を読む(その161)]

(10)浄土思想の二つの流れ

 これまでをふり返っておきますと、「信知す」という善導のことばは「信じる」ことと「知る」ことを合体させていますが、この二つは対照的ではないかと考えてきました。「知る」はこちらからアクセスすることであるのに対して、「信じる」は向こう(仏から)から思わずアクセスされるということ。
 そして「知る」ことは「ことばで言い表す」ことに他ならないのに対して、「信じる」ことはことばが及ばないということ。それを何とか言い表そうとしてしばしば使役法が使われる(「させられている」)ということ。そして「させられている」と感じるのは事後的であり、どんなときにそう感じるかを言うことはできない、といったことを見てきました。
 さて仏教を大きく捉えてみますと、「知る」ことを重んじる流れと、「信じる」ことを重んじる流れがあると言えます。前者は「悟り」をめざし、後者は「救い」をめざします。そして「悟り」は自ら得るものであるのに対して、「救い」は他者から与えられなければなりません。ここから自力と他力の対立軸が生まれてくることになります。
 浄土思想は言うまでもなく後者に属しますが、その中にもまた「知る」ことを重視する流れと、「信じる」ことを重視する流れがあります。
 浄土思想において「知る」とは仏の姿を「見る」ことであり、「信じる」とは仏の声を「聞く」ことです。末木文美士氏の『浄土思想論』を読みまして、「見仏」(あるいは「観仏」と言った方がいいかもしれません)の源流にある浄土経典として『般舟三昧経(はんじゅざんまいきょう)』が、「聞名」(「聞仏」とは言いません、仏の名号を聞くということで「聞名」と言います)の源流にある経典として『大阿弥陀経』(『無量寿経』の異訳の一つで古い層に属します)があることを教えていただきました。

タグ:親鸞を読む
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