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霊魂としてではなく [『一念多念文意』を読む(その176)]

(10)霊魂としてではなく

 この会話でSは霊魂の存在を退けています。もし霊魂が存在するなら、生者がいようがいまいが存在するが、死者は生者がいなければ存在できないと言うのです。死者は生者に依存しているというのは、死者は誰かに思い出してもらってはじめて存在できるということでしょう。もし誰も思い出さなければ、その死者は存在しないということです。存在しないにひとしいのではなく、文字通り存在しない。生者なら、たとえ誰ひとりその人のいることを思い出さなくなっても、存在しないことにはなりません。存在しないにひとしいかもしれませんが、しかし厳然として存在します。
 もし霊魂が存在するとしますと、生者の場合と同じく、誰ひとりその人のことを思い出さなくても、どこかに(霊界に)存在することでしょう。ただ、霊魂が客観的に(つまり誰かがその人を思い出そうが思い出すまいが)存在すると言おうとしますと、それを証明しなければなりません。一般に何かが客観的に存在すると言うときは、誰でも一定の手続きを踏めばその存在を確認できることを示さなければなりません。小保方さんがどれほどSTAP細胞はありますと言おうと、それを検証する手続きを示さなければ、言ったことにならないのです。
 霊魂について、その存在を証明できるとは思えません。それは経験を超えたことだからです。ですから霊魂については釈迦と同じく、あるいはカントと同じく沈黙を守るべきでしょう。しかし、それにもかかわらず死者は存在します。たとえば母。もう亡くなって何年たったのかすら曖昧になっていますが、しかし母は紛れもなく存在します。もしぼくが母は存在しないなどと言えば、母はどれほど悲しむことでしょう。でも、ぼくが母を思い出すからこそ母は存在するのであって、もう誰も母のことを思い出さなくなれば、母は存在しなくなります。

タグ:親鸞を読む
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