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自分だけ生きのこった! [『一念多念文意』を読む(その179)]

(13)自分だけ生きのこった!

 レヴィナスはたまたまフランス軍の兵士として捕虜となり、捕虜収容所に入れられたから生きながらえることができたのですが、自分がそのようにして生きながらえられたことが彼を苦しめるのです。そのことに何の責任もないのに、「家族がガス室に入れられ、自分が生き残ったのはそれでいいのか」と思ってしまう。このように大津波や広島やアウシュヴィッツの死者たちの顔は、生き残ったぼくらに「このまま生きていていいのか」という問いを突きつけてきます。
 しかし、死者の顔が思いがけなくぼくらに浮かんだとき、その顔は苦悶に歪んでいるでしょうか。無念の思いが表情に出ているでしょうか。そうではないように思います。むしろにっこり微笑んでいるのではないか。そしてその顔は「もう悲しまずに、安らかに生きてほしい」と語っているのではないか。
 ここでもう一度ベクトルの向きを考えてみましょう。ぼくらが死者のことを思うとき、死者の顔は苦悶に歪んでいるかもしれません。そしてその顔は「なぜおまえは生きのこった」と言っているかもしれません。でも、死者が思いがけずぼくらに現れるとき、その顔はにっこり微笑み、「そのまま生きていてほしい」と語っているのではないか。
 死者が思いがけず現れると言っても、幽霊のことを言っているのではありません。あるとき、ふと死んだ人がまぶたに浮かぶのです。そしてその声がする。と言っても耳に届く声ではありません。耳に届く声でしたら、その辺りにいる人にも聞こえるでしょうが、自分にしか聞こえない声で、こころの奥に届くのです。
 でもだからといってふと現れた死者はただのイメージではありません。ただのイメージならぼくの中で(脳の中に)つくられるだけですが、ふと現れた死者はぼくの中にいるのではありません、ぼくのよく知っている懐かしい場所にいます。そしてそこでにっこり微笑んでいます。

タグ:親鸞を読む
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