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大乗の仏 [『一念多念文意』を読む(その183)]

(17)大乗の仏

 仏とは自らなるものであり、そこには自分しかいません。もちろん修行仲間たちはいますし、自分たちに布施してくれる在俗の人たちもたくさんいるでしょうが、しかし悟りをめざして歩むのは所詮自分ひとりです。原始仏典を読みますと「静かなところをひとり歩め」という趣旨のことばがくり返し出てきますが、他者との関係は障碍になりこそすれ、修行にとって本質的ではないことがよく分かります。
 釈迦自身、他者との関係をすべて断ち(王位を捨て、妻子を捨てて)ひとり森に入っていったのです。そして悟りをひらいた後もそれを他の人に説こうとしなかったと伝えられますが、ここにも他者の非在があります。これが仏教の原型ですが、いつしか大きな変化が起こってきます。
 大乗仏教の登場です。
 大乗仏教とは何であり、どのようにして生まれてきたかというのは大問題ですが、その根本に菩薩思想があることには異論がないでしょう。菩薩思想とは要するに利他思想で、ここに他者が重要な存在としてはじめて登場してきます。自ら仏になる(自利)だけでなく、他を仏にしなければならない(利他)。いや、他を仏にすることで、はじめて自ら仏になれるという思想です。
 自分だけが仏になることはありえないというこの発想は、仏教のコペルニクス的転回と言わなければなりません。さて、みんなが仏となることではじめて自分も仏となれるとしますと、いまだ誰も仏ではないか、さもなければもうすでにみんなが仏であるかのどちらかでしかありません。
 ここから、もし仏が存在するとすれば、それはもはや個々の人間ではなく、すべてを包み込む普遍的な存在にならざるをえません。

タグ:親鸞を読む
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