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無量のいのち [『一念多念文意』を読む(その184)]

(18)無量のいのち

 このように大乗仏教において利他が欠くことのできない要素として登場することにより、仏のありように根本的な変化がもたらされることになります。ひとりの人間としての仏から、すべての人間(いや人間のみならず一切の生きとし生けるもの)を包み込む大いなる存在へと。
 阿弥陀仏という名前がそれを示しています。阿弥陀(Amita)とは「無量の」の意味であることはよく知られていますが、「無量のいのち(Amitayus)」にせよ、「無量のひかり(Amitaba)」にせよ、一切衆生を包み込む存在のイメージです。かくして「無量のいのち」としての仏は個々の人間を包み込みながら、個々の人間からは超絶した存在となります。
 ここに仏をめぐって困難な問題が立ちはだかることになります。一方では、もうすでにすべての衆生は仏に包み込まれて一体となっていなければならないにもかかわらず、他方では、仏は「無量のいのち」としてわれら有限な存在から超絶しているということです。このアポリアから抜け出るのに二つの道があります。
 一つは限りなく「無量のいのち」と一体化しようとする方向性で、もう一つは「無量のいのち」からの呼び声に救われるという方向性です。前者は仏との距離をできるだけなくし、仏の他者性を消さなければならないという方向であるのに対して、後者はあくまで超越的他者としての仏に救われるという方向です。前者が密教や禅、後者が浄土です。
 密教や禅においては、どのようにして有限なわれらが「無量のいのち」と一体となれるのかという問題があり、浄土においては、われらを救うという「無量のいのち」とは何かという問題があります。いずれ劣らぬ難問ですが、これまで考えてきましたのは「無量のいのち」とは死者たちのことではないかということです。

タグ:親鸞を読む
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