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「無量のいのち」が懐かしいあの人となって [『一念多念文意』を読む(その185)]

(19)「無量のいのち」が懐かしいあの人となって

 われらは「無量のいのち」からあるときこの世に生まれてきて、そして死ぬとまた「無量のいのち」へと還っていくということではないかということ。
 確かにわれらはあるとき生まれ、あるとき死んでいく有限な存在ですが、その始まりの前は「無量のいのち」につながり、その終わりの後はまた「無量のいのち」につながっているとしますと、われらの有限ないのちは「無量のいのち」のなかの小さな環であるということになります。
 ぼくらは「無量のいのち」のなかの小さな環であるのに、そのことに気づくことなく、ただのはかないいのちとして生きています。しかしあるときふと「無量のいのち」の輪であることを思い出させてもらえる。それが、まぶたに死者が浮かび上がり、にっこり微笑みながら「悲しまなくていいんだよ、安らかに生きてほしい」と声をかけてくれるということではないでしょうか。
 前に言いましたように、まぶたに浮かぶ死者は「懐かしいあの人」であって、誰だか知らない人ではありませんし、具体的な「顔」をもった死者であって、「無量のいのち」というような抽象的な存在ではありません。でもそれは色も形もない「無量のいのち」がそのときどきにとる「顔」であり、「無量のいのち」が「懐かしいあの人」として姿を現わすと考えることができます。
 「無量のいのち」そのものには色も形もありませんが、ぼくらに現れるときには「懐かしいあの人」の顔をとるということです。そして「そのまま生きていていいんだよ」と呼びかけてくれる、これが本願の声ではないかと思うのです。
 このあたりで「『一念多念文意』を読む」を閉じさせていただきたいと思います。長いあいだお付き合いくださり有り難うございました。

              (第12回 完)

タグ:親鸞を読む
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