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仏恩報ずるおもひ [『浄土和讃』を読む(その5)]

(5)仏恩報ずるおもひ

 第1首「弥陀の名号となへつつ 信心まことをうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり」について、三番目に取り上げたいのが「仏恩報ずるおもひ」です。
 親鸞はときどきこの「仏恩(ぶっとん)」ということばを使います。たとえば「信巻」の序に「まことに仏恩の深重なることを念じて、人倫の哢言(ろうげん、さげすむことば)を恥ぢず」とありますし、性信房宛ての手紙(『親鸞聖人御消息集』第7通)にはこうあります、「わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念仏こゝろにいれてまふして、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべし」と。
 このようなところから、浄土真宗では、信心が定まった後の念仏は「仏恩報謝」であると教えられます(覚如『口伝鈔』、蓮如『おふみ』)。さてしかし、これを「仏恩報謝のための念仏」としてしまいますと、賜ったものに対する「お返し」としての念仏というニュアンスが生まれ、独特の意味ではありますが、「ためにする念仏」「自力の念仏」になってしまうのではないでしょうか。
 この和讃で「仏恩報ずるおもひ」というのは、「弥陀の名号となへつつ 信心まことをうるひとは」気づいてみるとすでに「仏恩報ずるおもひ」のなかにいるということであり、決して「仏恩報ずるおもひ」を表すために念仏を称えるということではありません。ここで「事前と事後」という補助線が役立つでしょう。念仏を称えるに先立って(事前に)「仏恩報ずるおもひ」があるのではなく、念仏を称えるときに(事後に)「仏恩報ずるおもひ」があることに気づくのです。
 感謝の気持ちというのは、起そうとして起こるものではありません。気がついたらすでに起こっているのであり、そのときすでに「ありがとう」のことばが漏れ出ているのです。

タグ:親鸞を読む
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