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むなしくすぐ [『浄土和讃』を読む(その7)]

(7)むなしくすぐ

 第2首「誓願不思議をうたがひて 御名を称する往生は 宮殿のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまふ」の「むなしくすぐ」ということばですぐ頭に浮かぶのは『浄土論』の次の一節です。「仏の本願力を観ずるに、まうあふてむなしくすぐるひとなし、よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」。本願力に遇うことができれば、「むなしくすぐるひと」はないというのです。
 まず本願力について。
 本願と言っても同じでしょうが、本願力とすることで、われらに及ぼされる作用であることが明確になります。本願といいますと、ぼくらは習性として(それは「ことば」というもののもつ性でしょう)それを実体とみて、どこにあるのかと頭を廻らします。ところが本願力といいますと、それはぼくら(の身体)に及ぼされる作用として感じるものとなります。ですから、それを感じればありますし、感じなければありません。
 本願力に遇うというのは、その作用をわが身に感じることに他なりません。そして親鸞はそれが本願力を「信じる」ことだと言います。『一念多念文意』の中でこの天親のことばを解説して「まうあふとまふすは、本願力を信ずるなり」と言っています。これで明らかでしょう。本願力に遇うことができた人は「むなしくすぐる」ことはなく、遇うことができていない人は「むなしくすぐる」しかありません。
 それにしても「むなしくすぐる」とはどういうことでしょう。
 それとコントラストをなす第1首の「仏恩報ずるおもひあり」から考えますと、「むなしくすぐる」とは、何か寒々として砂を噛むような時間を過ごすことと言えばいいでしょうか。「宮殿のうちに」ということばにありますように、そこには何から何まで揃っているのですが、ただひとつ足りないものがある。それが「生きる喜び」です。

タグ:親鸞を読む
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