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勧信誡疑 [『浄土和讃』を読む(その8)]

(8)勧信誡疑

 冠頭讃2首を読んできました。本願を「信じる」とそれを「疑う」とを対比し、信じる人はそのありがたさに「仏恩報ずるおもひ」がするが、疑う人はこの世を「むなしく」過ごすしかないとうたっていました。そこから古来この2首は「信を勧め、疑を誡める」ものと受けとられてきたのですが、先に述べましたように(2)この「勧信誡疑」という言い回しには落とし穴が待ち受けています。
 本願を信じる人には喜びが、疑う人には空しさがあるのですから、そこから「本願を信じなさい、疑ってはいけません」となるのは自然ですが、どっこいそう言ってしまいますと親鸞浄土教の核心を外すことになるのです。先ほど言いましたように(5)、感謝しなさいと言われて感謝するものではなく、気がついたら感謝していたというのが実際ですが、同様に、本願を信じなさいと言われて信じられるものではありません、ふと気がついたらもうすでに信じているものです。
 もう一度「事前と事後」の区別を持ち出しますと、本願というものは、事前に(まえもって)信じようとして信じるものではなく、事後に(もうすでに)信じている自分に気づくのです。本願を信じるといいことがありそうだと思い、よし、では信じよう、というのではなく、あるときふと本願を信じている自分がいた、そしてそこにはすでにいいことがあった、ということです。
 「本願を信じる」には事前はなく事後しかないのです。
 本願という実体がどこかにあるのではなく、本願力という作用がわが身に感じられるのでした(7)。それが本願を信じるということですから、これは事後的でしかありません。ぼくらは痛みを感じようとして感じるのではなく、あるとき突然痛みに襲われるのです。気づいたときにはもう痛みを感じて顔をしかめています。本願力も同じです。あるとき突然本願力に包み込まれ、気づいたときにはもう喜びの中にいるのです。

タグ:親鸞を読む
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