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『浄土和讃』を読む(その9) ブログトップ

「ば」について [『浄土和讃』を読む(その9)]

(9)「ば」について

 第1首の「弥陀の名号となへつつ 〈信心まことをうるひとは〉 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり」を「弥陀の名号となへつつ 〈信心まことをうれば〉 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり」と言い替えることができます(七・五調は崩れますが)。同様に、第2首の「誓願不思議をうたがひて 〈御名を称する往生は〉 宮殿のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまふ」を「誓願不思議をうたがひて 〈御名を称すれば〉 宮殿のうちに五百歳 むなしくすぐとぞときたまふ」と置き換えられるでしょう。
 そこで考えたいのは、〈信心まことをうれば〉や〈御名を称すれば〉の「ば」です。口語文法では接続助詞「ば」は「仮定形」に接続しますが、文語文法では「未然形」に接続するときと「已然形」に接続するときがあります。そして「未然形+ば」は仮定条件(ならば)を表し、「已然形+ば」は確定条件(なので)を表します。口語では已然形が仮定形になり、その結果、文語において「已然形+ば」が担ってきた確定条件が消えてしまったのです(ニュアンスとして残っている場合はありますが)。
 さて〈信心まことをうれば〉の「ば」は、下二段活用の動詞「う」の已然形「うれ」に接続しますから確定条件で、「まことの信心をえているので」という意味になります。これは元の形である〈信心まことをうるひとは〉と意味的にぴったり重なります。ためしにこれを「未然形+ば」の形にしますと、〈信心まことをえば〉となり、「まことの信心をえるならば」と仮定条件を表します。意味的に、〈うれば〉としなければならず、〈えば〉ではないことは明らかでしょう。
 ところがこれを「まことの信心をえるならば」と仮定の意味にとってしまうことが多いのです。それは、口語において「ば」が仮定の意味に一元化されたことによることが大きいと思われます。「もしまことの信心をえたら」としてしまうのです。

タグ:親鸞を読む
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