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『浄土和讃』を読む(その10) ブログトップ

ためにする信心 [『浄土和讃』を読む(その10)]

(10)ためにする信心

 「もしまことの信心をえたら、素晴らしいご褒美がいただける」ということでしたら、「そうか、そうならまことの信心をえるべく努力しよう」となりますし、逆に「もし本願を疑うようなことがあれば、砂を噛むような空しい人生しかない」のでしたら、「そんなことになってはたまらないから、本願を疑わないようにしなければ」となるでしょう。これが「信を勧め、疑を誡める」ということですが、これではしかし「ためにする信心」にならないでしょうか。
 ここで改めて「ならば」(仮定条件)と「なので」(確定条件)がどう違うかを考えておきましょう。「信心するならば往生できる」と「信心するので往生できる」、ほとんど同じように聞こえるかもしれません。でも「信心するならば」は「これから」のことです。いまは信心していなくても、これから信心するならば往生できる、ということです。それに対して「信心するので」は「もうすでに」です。もうすでに信心しているので往生できる、ということです。
 もう一点、「AなのでBである」とは、ある特定のAについて言っています。「信心するので往生できる」とは、ある人は信心しているので往生しているということであり、別の人が信心したら往生できると言っているのではありません(それは保証の限りではありません)。それに対して「XならばYである」は、どんなXであろうと、XならばYであると言っています。「信心するならば往生できる」とは、誰であれ信心すれば往生できると言っているのです。
 「信心するので往生できる」からではなく、「信心するならば往生できる」から「往生しようと思ったら信心するといい」が導かれます。これはしかし計算づくの信心、「ためにする信心」です。

                (第1回 完)

タグ:親鸞を読む
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