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十二光仏 [『浄土和讃』を読む(その13)]

(3)十二光仏

 「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり 法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり」に続いて、「法身の光輪」がわれらを照らしてくれるさまを十二の相において讃嘆されます。
 『無量寿経』において、阿弥陀仏が十二の光の仏として描かれています、「このゆえに無量寿仏を、無量光仏、無辺光仏、無碍光仏、無対光仏、炎王光仏、清浄光仏、歓喜光仏、智恵光仏、不断光仏、難思光仏、無称光仏、超日月光仏と号す」と。曇鸞は「讃阿弥陀仏偈」で、この十二光仏の一つひとつについて讃嘆しているのですが、親鸞はそれを和讃になおしているのです。
 その第一。

 「智恵の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく 光暁(こうきょう)かぶらぬものはなし 真実明に帰命せよ」(第4首)
 「智恵のひかりはかぎりなし、かぎりある世をことごとく、てらしてあますところなし。まことのあかり帰命せん」。

 もとの曇鸞の偈は「智恵の光明量(はか)るべからず ゆえに仏をまた無量光と号(なづ)けたてまつる 有量の諸相光暁をこうむる このゆえに真実明を稽首したてまつる」で、有量の諸相(われら有限なものども)や光暁(暁の光)、真実明(真実の光明)は曇鸞のことばです。
 さてこの和讃で考えたいのは、「無量と有量(無限と有限)」ということです。
 先ほど「永遠といま」について考えました。「永遠」の本願力は「いま」わが身においてしかないということです。同じように、「無量」の光明は「有量」のわが身においてしかないのではないでしょうか。ぼくらはともすると無量は有量とはまったく別のところに存在すると思います。ぼくらが生きている世界は有量の世界で、それとは超絶したところに無量の世界があると。この娑婆世界を「去ること十万億刹」の彼方に阿弥陀仏の安楽浄土があると考える。

タグ:親鸞を読む
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