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飛ぶ矢のパラドクス [『浄土和讃』を読む(その14)]

(4)飛ぶ矢のパラドクス

 「智恵の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく 光暁かぶらぬものはなし 真実明に帰命せよ」という和讃を読みながら「無量と有量」について考えているところです。無量つまり無限ということを考えるとき、ゼノンのパラドクス(背理)が壁のように立ちはだかります。
 「飛ぶ矢」の話をご存知でしょうか。飛ぶ矢が的に至るためには、的までの中間地点Aを通らねばなりません。そして中間地点Aに至るためには、そこまでの中間地点Bを通らねばならず。そしてその中間地点Bに至るためには…、以下同じで、どこまでも果てがありません。ゼノンはここから「飛ぶ矢は飛ばない」と結論します。これにどう反論すればいいでしょうか。
 矢の発射地点から的までを一つの直線とします。そしてそこに中間地点Aをとり、次いで中間地点B、さらに…と中間地点をとっていきます。もしその直線の中に中間地点が無限にあるとしますと、矢は無限の中間地点を通過しなければならず、それはゼノンの言うように不可能というものです。こうしたパラドクスに陥るのは無限というもの(いまの場合は無限の中間地点の集合)があらかじめどこかに(いまの場合、的までの直線の中に)存在すると考えるからです。
 しかし、だからといって無限という概念が無意味ということではないでしょう。ぼくらは無限との対で有限を考えることができますから、有限が意味を持つ限り(人の命が有限であることをぼくらは実感しています)、無限も意味があるはずです。ただ、無限を考える際に、それをあらかじめどこかに存在するものとして捉えるとゼノンのパラドクスに陥りますから、あくまでも「有限では〈ない〉」こととして否定的に捉えるしかありません。
 「飛ぶ矢」において無限とは、的までの直線の中に無限の点が含まれているという意味ではなく、的までの中間地点をとる作業はどこまでも続けることができ、切りが〈ない〉という意味にすぎないのです。

タグ:親鸞を読む
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