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有無をはなる [『浄土和讃』を読む(その16)]

(6)有無をはなる

 「解脱の光輪きはもなし 光触(こうそく)かぶるものはみな 有無をはなるとのべたまふ 平等覚に帰命せよ」という和讃ですが、弥陀の光明に触れると「有無をはなる」と言われていることに注目したい。「有無をはなる」と言うのは、「有」の見からも「無」の見からも離れ、「中」の見方に立つということで、龍樹が『中論』において展開している議論です。曇鸞はもともと龍樹を学んだ人で、浄土の教えと龍樹の中観の思想がここで接合されているのです。
 さて「有無の見」を離れて、「中の観点」に立つとはどういうことか。ことは「わたし」に関わります。釈迦は「わたし」は存在しないという驚くべきことを言いましたが(無我)、龍樹はそれをさらに哲学的に深めたと言えます。
 だれしも、「わたし」はいずれこの世からいなくなるにしても、この世にいる間は同じ「わたし」として持続すると思っています。昨日の「わたし」と今日の「わたし」は同じであると信じて疑いません。もちろん細かく見ますと日々変化し続けていますが(頭髪が何本か少なくなっているでしょう)、でもそうした変化を貫いて同じ「わたし」がいることは動きません。そこから同一のものとして持続する「わたし」が存在すると考えるのが「有の見」です。釈迦はこれを我執(「わたし」への執着)として否定したのです。
 龍樹はさらに一歩を進め、「わたし」というものはどんな意味においても存在しないと考えるのも同様に執着した見方であるとして、これを「無の見」として否定します。かくして「有」でもなく、しかし「無」でもないという「中」の観点が開かれるのです。それは、同じものとして持続する「わたし」が魂のように実体としてどこかに存在するのではないが、しかし他のものとの繋がりのなかにあるものとしての「わたし」は紛れもなく存在するということです(そうした意味の「わたし」もないというのは、もう何を言っているのか分かりません)。
 「わたし」は「実体」としてあるのではなく、「繋がり(縁起)」としてあるというのです。

タグ:親鸞を読む
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