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光に触れる [『浄土和讃』を読む(その17)]

(7)光に触れる

 「解脱の光輪きはもなし 光触かぶるものはみな 有無をはなるとのべたまふ 平等覚に帰命せよ」の「有無をはなる」について考えているところです。弥陀の光明に触れるものは、「わたし」を実体としてそれに執着することから解き放たれ、ただ繋がりとしての「わたし」があるだけと見ることができるようになるというのですが、どうしてそんなことが起こるのでしょう。
 ぼくらは深く「わたし」に執着しています。執着していることも忘れるほど深く執着しています。いや、執着していることすら忘れるということが執着していることに他なりません。とらわれていることに気づいたときは、もうとらわれから抜け出しているのです。ぼくらは「これはわたしのものである」と言うことに露ほども疑いも持ちません。たとえばぼくのパソコンについて「これはぼくのものである」ことを当然のことと思っていますから、それを誰かに否定されでもしたら、ぼくは無性に腹が立ちます。これが「わたし」に、そして「わたしのもの」にとらわれていることに他なりません。
 さてこのとらわれからどのようにして離れることができるでしょう。
 執着していることを忘れていることが執着していることだと言いましたが、ではどのようにしてこの忘却から抜け出ることができるのか、これが問題です。忘れていた何かを思いだす場面を考えてみましょう。そのとき、思いだそうと努力して思い出したのではありません。思い出そうとするということは、忘れていることに気づいているということで、それではすっかり忘れていたことにはなりません。すっかり忘れていた場合、それを自分で思いだすことはありません。いや、思いだすのはあくまで自分ですが、そのきっかけは外からやってくるのです。
 それが光に触れるということです。

タグ:親鸞を読む
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