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さわりなし [『浄土和讃』を読む(その18)]

(8)さわりなし

 次に十二光の三番目、無碍光についての和讃です。

 「光雲無碍如虚空(こううんむげにょこくう) 一切の有碍(うげ)にさはりなし 光沢かぶらぬものぞなき 難思議を帰命せよ」(第6首)。
 「ひかりは虚空のごとくして、どんな障りもものとせず、ひかりの恵みみなかぶる。不思議のほとけ帰命せん」。

 もとの曇鸞の偈は「光雲無碍にして虚空のごとし ゆゑに仏をまた無碍光と号けたてまつる 一切の有碍光沢を蒙る このゆゑに難思議を頂礼したてまつる」で、和讃の第一句は曇鸞の偈を漢文のままもってきているのです。ここでは「無碍と有碍」とが対比され、さわりのない(無碍の)光明が、さわりのある(有碍の)われらのもとに届くことの不思議をうたっています。
 しかし、われらにさわりがある〈にもかかわらず〉、さわりのない光明が届くのではなく、われらにさわりがある〈からこそ〉、さわしのない光が届くということ、このことを考えてみたいと思います。「さわり」ということばで曇鸞や親鸞の頭にあるのは言うまでもなく煩悩でしょう。「わたし」への執着です。そんな執着が邪魔をして弥陀の光明は届かないのではないか。
 しかし、先回考えましたように、「わたし」への執着というのは、実は、執着していることに気づいていないということです。とらわれていることに気づいた途端にとらわれから解き放たれるのです。しかし自分ではとらわれているなどとは思いもしないのですから、とらわれていることに自分で気づくことはありえず、その気づきは外からもたらされるしかありません。それが「光沢をかぶる」ということです。「光沢をかぶる」ことが機縁となって、とらわれていることにハッと気づく。
 としますと、「わたし」への執着(さわり)がある〈にもかかわらず〉、弥陀の光明はわれらのもとに届くのではありません、「わたし」への執着がある〈からこそ〉届くのです。もしこの執着がないなら、弥陀の光明は必要ありません。われらにこの執着があるからこそ、弥陀の光明はとらわれていることに気づかせてくれるのです。「悪人正機」とはそういうことです。悪人である〈にもかかわらず〉救われるのではありません、悪人である〈からこそ〉救われるのです。

タグ:親鸞を読む
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