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『浄土和讃』を読む(その20) ブログトップ

いまあふことをえたり [『浄土和讃』を読む(その20)]

(10)いまあふことをえたり

 「あひがたくして〈いま〉あふことをえたり、ききがたくして〈すでに〉きくことをえたり」という言い回しにはっきり現われていますように、〈いま〉は〈すでに〉を含意しています。「えたり」の「たり」という助動詞は、完了を表す「つ」の連用形「て」に、現在を表す「あり」が接合してできたもので、「すでに~してしまい、いまそうである」という意味です。「むらさきだち〈たる〉雲のほそくたなびき〈たる〉」(枕草子)とは、〈すでに〉雲が紫がかってたなびき、〈いま〉その状態にあるということを表します。
 〈いま〉は「いま~してしまった」ということです。「いま出かけた」というのは、「少し前に出かけたところで、いまそちらに向かっている」ということですし、「いま何してる?」と問われて「いま食事中」と答えるときも、すでに食事ははじまっています。そしてそれはいまも続いているのです。ぼくらは〈いま〉と言えば現在のことだろうと早合点してしまいますが、「いま~してしまった」(完了)は現在に限定されるわけではなく、過去のこともあり(過去完了です)、未来の場合もあるのです(未来完了です)。
 〈いま〉の反対は〈すでに〉ではありません(〈いま〉の中に〈すでに〉が含まれています)。〈いま〉の反対は〈これから〉です。「いま~してしまった」と「これから~するつもり」が対になります。遇うが前者であるのに対して、会うが後者です。誰かと会うのは「これから会おうとして会う」のです。「昨日、A君と会った」というのも、「昨日、A君と会おうと意図して会った」のあり、ばったり遇ったのではありません(その場合は「昨日、A君と遇ってびっくりした」と言います)。
 さて、本願に、あるいは弥陀の光明には「遇う」のであって、「会う」のではありません。本願(光明)に会おうと意図して会えるものではありません、あるとき不図本願に遇ってびっくりするのです。

タグ:親鸞を読む
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