So-net無料ブログ作成
検索選択
『浄土和讃』を読む(その22) ブログトップ

三途の黒闇ひらくなり [『浄土和讃』を読む(その22)]

(12)三途の黒闇ひらくなり

 煩悩はそれに気づくことがすでにしてそこから抜け出すことだという点はまだ納得していただけないかもしれませんが、次の和讃を読みながら、さらに考え続けたいと思います。

 「仏光照曜最第一(ぶっこうしょうようさいだいいち) 光炎王仏となづけたり 三途の黒闇ひらくなり 大応供(だいおうぐ)を帰命せよ」(第8首)。
 「かがやくひかりこのうえなく、ほのおの王となづけられ、三途の闇もきえうせる。大
応供にぞ帰命せん」。

 十二光の五番目、炎王光(どういうわけか、親鸞は光炎王と言います)についてです。またもとの曇鸞の偈を上げておきますと、「仏光照曜すること最第一なり ゆゑに仏をまた炎王光と号けたてまつる 三途の黒闇光啓(こうけい)を蒙る このゆゑに大応供を頂礼したてまつる」となっており、和讃の第一句は曇鸞の偈文そのままです。大応供とは仏を表す名称(如来十号)の一つで、他から供養を受けるに値するものということです。
 炎王光とは弥陀の光明の耀きは他のどの仏よりも勝れており、その光をこうむると「三途の黒闇」も啓けるというのです。三途とは地獄・餓鬼・畜生の三悪道をさし、そんな真っ暗闇の世界にも弥陀の光明は差し込むということです。これも元は『無量寿経』にあり、「もし三途の勤苦(ごんく)の処に在りて、この光明を見たてまつれば、みな、休息(くそく)をえて、また苦悩なく、寿(いのち)終りて後、みな、解脱を蒙る」と書いてあります。
 これを「死んでからの話だ」としてしまいますと、この和讃も縁のないものになってしまいます。三途とはこの世で悪をなしたものが、いのち終った後に行くところではありません、ぼくらがいま生きているところです。『歎異抄』2章の有名な「地獄は一定すみかぞかし」ということばは、「地獄に行くに決まっている」と普通に解釈するのでは親鸞の真意が伝わらないと思います。「いまもう地獄にいるじゃないか」と受けとることではじめてドスンと胸に届きます。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問
『浄土和讃』を読む(その22) ブログトップ