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『浄土和讃』を読む(その23) ブログトップ

地獄は一定すみかぞかし [『浄土和讃』を読む(その23)]

(13)地獄は一定すみかぞかし

 「いまもう地獄にいるじゃないか」には素直に頷けないかもしれません。確かにここを極楽とは言えないが、だからといって地獄ほどひどくはない、と思うのが普通でしょう。
 少し前のところで(11)、欲を起し腹を立てながら、それを当たり前と思い何の問題も感じなければ煩悩などどこにもなく、それを恥じることもないと言いましたが、それと同じで、この世を生きるには多少は悪いこともしなければならないが、それを埋め合わせるぐらいは善いこともしているから、この世が地獄のようなところだというのは言いすぎではないかと思うのが普通かもしれません。
 改めて「悪人正機」について考えてみましょう。
 「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」は、善人よりもむしろ悪人の方が救われるということですが、これをどう理解すればいいか。悪人は自分の力で救いをえることはできないから、弥陀は悪人の方に救いの手を差し伸べてくださるというのが普通の解釈でしょう。これを間違いとは言えませんが、深みに欠けると言わざるをえません。そもそも何をもって善人と悪人に分けることができるのでしょう。自分を善人と思うのは、ただ悪人であることに気づいていないだけではないでしょうか。
 「わたし」に執着しながら、それに気づいていないように、悪人でありながら、そのことに気づいていない。欲を起し腹を立てながら、それを人間として当然のことと思っている人に「あなたは善人ですか、それとも悪人ですか」と尋ねたら、「いやあ、善人とは言えないですが、でも悪人でもないと思いますよ。まあ普通の人間です」という答えが返ってくるのではないでしょうか。この「普通の」が曲者です。「普通のどこにでもいる」ということで自分を善男善女の一人に数えているのです。
 人間に善人と悪人がいるのではなく、悪人と気づいていない(したがってまあまあの善人と思っている)悪人と、悪人であることに気づいた悪人がいるだけです。そして自分は悪人だと気づいたときが救いのときである。これが「悪人正機」ということです。

タグ:親鸞を読む
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