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業垢をのぞき解脱をう [『浄土和讃』を読む(その25)]

(15)業垢をのぞき解脱をう

 次の和讃は清浄光についてです。

 「道光明朗(みょうろう)超絶せり 清浄光仏とまうすなり ひとたび光照かぶるもの 業垢(ごっく)をのぞき解脱をう」(第9首)。
 「さとりのひかりほがらかに、きよらなひかりのほとけとぞ。ひとたびひかりてらされ
て、垢をのぞいてさとりをう」

 「道光」の「道」とは菩提(ボーディ)の漢訳で、悟りのことです。弥陀の悟りの光は明朗で、これをこうむるものはみな業垢(第7首では業繋とありました。煩悩です)が除かれ、解脱がえられるというのです。
 ここでは「明朗で清浄な光」と「罪や業の垢」とがセットになっていて、ぼくらの身体を覆っている罪や業の垢を清浄な光が洗い流してくれるというイメージが浮かび上がりますが、これまで述べてきましたように、清浄な光は罪や業の垢を明るみに引き出すだけです。それが解脱することだとしますと、悟りをひらき解脱するということの印象が改まるような気がします。悟りをひらくというのは、思いもよらない真新しい真理をつかむことのように思いますが、そんなことではなく、ただ身体を覆っている垢のほんとうの姿が明るみの中に引き出されるだけのことだと。
 一つ前の和讃(第8首)では、炎王光が「三途の黒闇ひらくなり」とありました。これもうっかりすると、太陽の光が真っ暗な部屋に差し込んで昼間の明るい部屋に一変するというイメージをもってしまいますが、そうではないでしょう。真っ暗な空間に月の光がふりそそぎ、そのことによってそこが暗闇であることが明らかになるということです。暗闇は暗闇のままで、ただ、それまでは暗闇とは思っていなかったのが、「あゝ、暗闇なのだ」と気づくだけのことです。
 光をこうむることで、これまで気づいていなかったことにふと気づく、これが「黒闇ひらく」ことであり、「業垢をのぞく」ことです。

タグ:親鸞を読む
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