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法喜をう [『浄土和讃』を読む(その26)]

(16)法喜をう

 次の和讃は歓喜光についてです。

 「慈光はるかにかぶらしめ ひかりのいたるところには 法喜をうとぞのべたまふ 大安慰(だいあんに)を帰命せよ」(第10首)。
 「慈愛のひかりこうむって、はるかにわれにとどくとき、身によろこびが満ち満ちる。大安心に帰命せん」

 光をこうむることは喜びであるということですが、まず確認しておきたいことは、光をこうむることは、いままで気づいていなかったことに気づくことであることで、これについては繰り返し述べてきました。
 いままで気づいていなかったことの中には嫌なことがいっぱいあります。いや、気づかないままであった方がよほどいいと思われることが大半と言ってもいい。「あゝ、これは煩悩だ」と気づくこと、「あゝ、オレは悪人だ」と気づくこと、こんなことがどうして喜びなのでしょう。煩悩などに気づくことなく、欲を起し腹を立てるのは当然だと思っている方が気楽でいいのではないでしょうか。悪人だなどと気づくことなく、ほどほどの善人だと思っている方がよほど安気ではないでしょうか。
 「あゝ、これは煩悩だ」、「あゝ、オレは悪人だ」と気づくことそれがどうして「法喜をう」ることになるのでしょう。
 「あゝ、これは煩悩だ」と気づくことで、煩悩が消えてしまうのなら、それは大いなる喜びでしょう。「あゝ、オレは悪人だ」と気づくことで、悪人ではなくなるのなら、これまた大きな喜びが湧き上がるでしょう。しかし、何度も言いますように、煩悩の気づきは煩悩が消えることではなく、悪人であることの気づきは悪人であることがリセットされることではありません。これまでと何も変わらず、しかもこれまで目にしなくてもよかったことが目の前に突きつけられるのです。これは喜びなどというものではなく、むしろ悲しみではないのでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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