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許せない! [『浄土和讃』を読む(その27)]

(17)許せない!

 ここで改めて思い出したいのは、自分が何かにとらわれていることに気づくことは、取りも直さずそれにとらわれなくなるということです。それがどうして喜びであるかは、「とらわれなくなる」というのがどういうことかを具体的に了解できれば納得できそうな気がします。
 「世の不正は許せない!」という思いについて考えてみましょう。
 だいぶ前になりますが、兵庫県議が政務調査費を不正取得したことが発覚し、行われた記者会見の模様が大きな話題となりました。大の大人が子どものようにワーワー泣き喚く姿があまりに見苦しかったからです。そんな不正が明るみに出ますと、誰しも怒りを覚えます。市民の税を不正にわがものとするとは何ごとかと腹が立つのは当然で、腹が立たない人の方がどうかしていると思います。
 さてそこでこの怒りの元にあるものを見定めたいのですが、すぐ分かるのは、同じような不正をしている人(そんな政治家たちは大勢いるのではないでしょうか)は、おそらく彼を許せないとは思わないということです。つまり、許せないと思うのは、自分は不正をしていないのに、している人間がいるからです。もう一歩踏み込んで言いますと、自分は不正をしたくてもできないのに、あいつは不正ができることをいいことに不正を働いている、それが許せないのです。
 あるいは、不正ができる条件にあっても不正をしない人は、その条件をいいことに不正をする人間を許せないでしょう。自分は不正をしてはいけないと自制しているのに、あいつはしたい放題に不正をしている、それが許せない。自分は悪に手を出さないように必死に頑張っているのに、あいつは簡単に手を出している、何というヤツだ、となります。ここには、「自分は善人だ」という思いがあります、しようと思えば不正ができるのにしていないのですから。だからあの悪人は許せない。

タグ:親鸞を読む
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