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安慰ということ [『浄土和讃』を読む(その28)]

(18)安慰ということ

 「不正をしようと思えばできるのだが、自制して不正をしない」というのは、もうひとつ言いますと、「ほんとうは不正をしたいのだが、自制して不正をしない」ということです。それは人間として立派なことであるのは間違いありません。世の中の秩序はこうした自制によって成り立っています。しかし「ほんとうは不正をしたい」という思いがあることにおいては、実際に不正をする人と何も変らないとも言えます。「欲に目がくらんで」不正を働くのですが、「欲に目がくらんで」いることにおいて、実際に不正を働く人も、グッと自制する人も何も変りません。
 「欲に目がくらんでいることにおいて同じじゃないか」と思うことは、「あゝ、オレは悪人だ」と気づくことです。
 「オレはほどほどの善人だ」と思っている人は、世の悪人を許せません。「あんなヤツは地獄におちろ」と思います。一方、「あゝ、オレは悪人だ」と気づいている人は、「あいつもオレも所詮同じだ」と思います。だからと言って、不正を働くことが是認されるわけでないことは言うまでもありません。不正を働いた人には「きみのやったことは悪である」ときっぱり言わなければなりません。でも、「オレはほどほどの善人だ」と思っている人の「許せん!」と、「あゝ、オレは悪人だ」と気づいた人の「きみのやったことは許されない」との間には大きな開きがあります。
 前者は悪にとらわれていますが、後者はもう悪にとらわれなくなっています。その違いは両者の目に現われています。前者の目は怒りに血走っていますが、後者の目には静かな悲しみがあります。先に(16)、「オレはほどほどの善人だ」と思っている方が「オレは悪人だ」と思うよりよほど安気ではないかと言いましたが、実際は違うようです。「世の悪人どもは許せない」と怒りに身を震わせるのはとてもシンドイことです。そこに「安慰」はありません。それに対して「オレは悪人だ」と気づくところには、意外にも静かな安らぎがあるのです。それがこの和讃に言う「法喜をう」ということでしょう。

タグ:親鸞を読む
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