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聞光力ということば [『浄土和讃』を読む(その31)]

(21)聞光力ということば

 続いて不断光です。

 「光明てらしてたえざれば 不断光仏となづけたり 聞光力(もんこうりき)のゆゑなれば 心不断にて往生す」(第12首)。
 「ほとけのひかりつねにあり。たえぬひかりのほとけとぞ。たまわる信のちからゆえ、こころにたもち往生す」。

 もとの曇鸞の偈は「光明一切の時にあまねく照らす ゆゑに仏をまた不断光と号けたてまつる 光力を聞くがゆゑに心断えずして みな往生を得、ゆゑに頂礼(ちょうらい)したてまつる」です。光が不断であるゆえに、心(信心)も不断であるとうたっています。
 ここで目を引くのは「聞光力」ということばです。このことばの元は『無量寿経』の「もし、衆生ありて、その光明の威神功徳を聞きて、日夜に称説して、至心に断えざれば、意の願うところに随って、その国に生まることを得」でしょう。「光明の威神功徳を聞きて」を「光力を聞きて」と言っているのです。まず光力という表現ですが、これは本願力と同じく、光を「力用(りきゆう、はたらきのことです)」と捉えています。光が照らされるということは、忘却の中にまどろんでいるわれらの頬をピシャリと平手打ちし、目を覚まさせることです。
 さてその光力を「聞く」というのですが、これが何とも味わい深い。光は普通「見る」ものでしょうが、それを「聞く」と言う。
 合理的に解釈すれば、光力の「いわれ」を聞くということになるでしょうが、それでは何ともまだるっこい。やはり光を直に聞くのです。パウロのことを思い出します。キリスト教徒たちを逮捕しようとパウロ(その時の名はサウロ)が「道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照らした。彼は地に倒れたが、その時『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。そこで彼は『主よ、あなたは、どなたですか』と尋ねた。すると答があった、『わたしは、あなたが迫害しているイエスである…』」(『使途行伝』9章)。パウロは光を聞いたのです。

タグ:親鸞を読む
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