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難思議ということ [『浄土和讃』を読む(その32)]

(22)難思議ということ

 次は難思光(なんじこう)です。

 「仏光測量(しきりょう)なきゆゑに 難思光仏となづけたり 諸仏は往生嘆じつつ 弥陀の功徳を称せしむ」(第13首)。
 「ほとけのひかりはてもなく、おもいもことばもたえはてる。諸仏は弥陀をほめたたえ、すくいのちから称賛す」。

 もとの曇鸞の偈は「その光、仏を除きてはよく測るものなし ゆゑに仏をまた難思議と号けたてまつる 十方諸仏往生を歎じ その功徳を称したまへり、ゆゑに稽首(けいしゅ)したてまつる」です。「測量なき」とは、曇鸞の偈からしますと、仏のことは仏にしか分からず(唯仏与仏)、その光をわれらは測り知ることができないということです。だから難思議だというのです。
 実際のところ、突然どこからともなく光に照らされるとか、誰からともなく声がするなどというのは尋常ではありません。現に存在しないものを見たり、ありもしないものを聞くのは普通幻視とか幻聴とか呼ばれ、病的な現象とされます。しかし考えてみますと、ぼくらはごく普通に現に存在しないものを見たり聞いたりしているのではないでしょうか。ぼくには昨日の出来事の一こまが目の前にアリアリと見えますし、その時の人の声や周りの音が耳の底に残っていますが、これは過去を想起しているのであって、まったく病的なことではありません。
 幻覚と想起とはどう違うのでしょう。言うまでもなく、幻覚は「いまここ」にありもしないものを「いまここに」見たり聞いたりすることですが、想起は「いまここ」にありもしないものを「あのとき、あの場所」で見たり聞いたりしているのです。すぐ前のところで言いましたように(20)、光をこうむるという経験は、気づいていなかったことにふと気づくことです。それは、ほんとうはすでに知っているのに、どういうわけかすっかり忘れていることを、あるときふと思い出すことです。
 突然どこからともなく光に照らされるなどと言いますと、何かいかがわしく思われるかもしれませんが、でも何かをふと思いだすとき、突然光に照らされるように感じるのではないでしょうか。何とも不思議ですが、そもそももうすでに存在しないことを思い出すこと自体が不思議なことです。

タグ:親鸞を読む
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