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こころもおよばれず、ことばもたへたり [『浄土和讃』を読む(その33)]

(23)こころもおよばれず、ことばもたへたり

 次に進みます。無称光です。

 「神光(じんこう)の離相をとかざれば 無称光仏となづけたり 因光成仏のひかりをば 諸仏の嘆ずるところなり」(第14首)。
 「ほとけのひかり相(かたち)なく、こころおよばぬほとけとぞ。ひかりとなれるほとけをば、諸仏ひとしくほめあげる」。

 もとの曇鸞の偈は「神光相を離れたれば名づくべからず ゆゑに仏をまた無称光と号けたてまつる 光によりて成仏したまへば光赫然(かくねん)たり 諸仏歎じたまふところなり、ゆゑに頂礼(ちょうらい)したてまつる」です。
 「神光」とは『無量寿経』に出てくる「威神光明」の略でしょう。「離相をとかざれば」は分かりにくい言い回しですが、曇鸞の偈を見ますと「相を離れたれば」とありますから、「姿かたちがない」ということで、だから「説くことができない」というのです。「称」にはいろいろな意味がありますが(はかる、つりあう、たたえる、となえる、とく、なづける、など)、ここでは「とく」、あるいは「なづける」でしょう。「因光成仏のひかり」も分かりにくいですが、これも曇鸞の偈から「阿弥陀仏は光明の誓いを因として成仏された」と解することができます。
 第13首は難思光(思いはかることができない光)で、ここでは無称光(語ることができない光)、どちらも「こころもおよばれず、ことばもたへたり」ということです。
 『唯信鈔文意』に、阿弥陀仏について「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたへたり」とありますが、その光明についても同じことです。さてしかし、ぼくとしましては「こころもおよばれず、ことばもたへたり」と言ってすましていることができません。いらざるはからいとお叱りを受けるかもしれませんが、それでも「この不思議な光はいったい何だろう」と考え続けざるをえないのです。

タグ:親鸞を読む
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