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あひがたくしていまあふことをえたり [『浄土和讃』を読む(その34)]

(24)あひがたくしていまあふことをえたり

 本願に「あひがたくしていまあふことをえた」とき、突然光に照らされるように感じるのですが、それは本願をふと思いだしているのに違いありません。実はもうすでに本願に遇っているのに、そのことをすっかり忘れていて、あるときそれを光のなかで思いだすのです。もしそのときはじめて本願に遇うのでしたら、それが本願であることがどうして分かるでしょう。「あゝ、いま遇うことができた」と思えるのは、いつかすでに遇ったことがあるからです。
 少し前のところで(20)、プラトンの想起説を紹介しました。ぼくらが思いもよらない真理に目覚めることができるのは、それにすでに遇ったことがあり、それを想い起こすからだというのでした。もっと身近な例としては、ある女性(男性)と出会い、「あっ、この人だ、この人を待っていたのだ」と思う。不思議な縁としか言いようがありませんが、これも、実はすでに(前世で?)その人に遇ったことがあるに違いありません。でなければ、「あっ、この人だ」と思いようがありません。
 さてここで考えたいと思いますのは、すでに遇っていたことを思いだすということの不思議です。「何かを思いだす」ということは、当たり前のことでありながら、考えてみますとつくづく不思議なことです。たとえば昨日ある人に会ったという事実はもうどこにもありません。いや、それは大脳の中に記憶として残っていると言われるかもしれませんが、そして科学者は大脳皮質の記憶野を示してここにあると言うかもしれませんが、そこにあるのはある種の物質にすぎません。
 なるほどその物質を切除してしまえば、記憶が消えてしまうでしょう。その意味ではその物質は、記憶にとって不可欠の条件であることは間違いありません。しかしその物質の中に過去が記憶され、そしてそれが想起されるということは依然として未解明のままです。過去が記憶され想起されることの不思議は一ミリでも減ったわけではありません。

タグ:親鸞を読む
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