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本願に遇えた喜びは [『浄土和讃』を読む(その36)]

(26)本願に遇えた喜びは

 まず確認しなければならないのは、本願に遇えた喜びは、同時に悪人であることを自覚する悲しみでもあるということです。喜びがただ喜びとしてあるのではなく、それをクルッと裏返すと、そこに悲しみがある、この点でノーベル賞受賞の喜びと異なります。後者には悲しみの影がありません。もし悲しみがあるとすれば、それは喜びを食い破るものであり、喜びと悲しみは二律背反の関係です。しかし前者では、喜びがそのまま悲しみであり、悲しみがそのまま喜びであるということ、ここに本願に遇えた喜びの秘密があります。
 悲しみと二律背反の関係にある喜びは、常に悲しみに脅かされています。いつなんどき悲しみに食い破られるかしれません。それが人生の醍醐味ではないか、という声がします。悲しみのどん底があるから、喜びの頂きが輝くのであって、悲しみに脅かされていない喜びなんて気の抜けたビールのようだ、と。しかし、こう言う人は今喜びの中にいる人で、今悲しみのどん底にいる人は、喜びの頂きなんてなくていいから、とりあえずこの悲しみから抜け出したいと思うに違いありません。
 一方、本願に遇えた喜びはと言いますと、「あゝ、オレは悪人なんだ」という悲しみに裏打ちされています。そして「こんなオレが、こんなオレのまま生きていていいのだ」という喜びです。この喜びは、もはやどんな悲しみにも脅かされません、喜びがそのまま悲しみであるような喜びなのですから。「あゝ、オレは悪人なんだ」という悲しみが「機の深信」であり、「こんなオレが、こんなオレのまま生きていていいのだ」という喜びが「法の深信」であることはもう言うまでもないでしょう。
 本願に遇えた喜びがなくても、人生にはさまざまな喜びがあります。でも、その喜びはどこか脆い。いつまでも続くものではないという予感があるからです。それに対して、本願に遇えた喜びは人生のときどきにやってくる突き上げるような喜びではありませんが、でもそれさえあれば、どんな悲しみがやってきても静かにのりこえることができそうな予感がするのです。

                (第2回 完)

タグ:親鸞を読む
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