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『浄土和讃』を読む(その48) ブログトップ

預言者と還相の菩薩 [『浄土和讃』を読む(その48)]

(12)預言者と還相の菩薩

 釈迦(人間)が世界の実相を摑むという構図から、世界の実相が釈迦(人間)を摑むという構図への転換と言えます。前者が自力の構図であり、後者が他力の構図です。
 ユダヤ教(キリスト教)やイスラームには預言者が登場します。ユダヤ教(キリスト教)ではモーセ、イスラームではムハンマドがその代表ですが、預言者とは将来を予言する人ではなく、神のことばを預けられた人ということです(イスラームでは、アブラハム、ノア、モーセたちユダヤ教の預言者をそのまま認め、イエスも預言者のひとりとします。そしてムハンマドを最後の預言者と考えるのです)。このように神のことばは預言者の口を通して人間たちに伝えられますが、これは弥陀の本願が還相の菩薩たちを通して一切衆生に伝えられるのとよく似ています。
 ただユダヤ教(キリスト教)やイスラームの預言者は限られた人、神に選ばれた特別な人ですが、浄土教では還相の菩薩はその数無量ですし(「算数におよぶことぞなき」)、すぐ隣におられるどなたかが還相の菩薩になってくださるのですから、特別な人でも何でもありません。散歩道で出会った見知らぬ方が、思いがけずぼくにとっての還相の菩薩になってくださるのです。くどいようですが、ぼくは還相の菩薩を知覚することはできません、ただ想起するだけです。ぼくの耳に聞こえるのは「こんにちは」の声だけで、その声を通して「あむあみだぶつ」の声を想起しているのです。
 さてしかし見知らぬ方の姿を通して還相の菩薩を想起するということは、その方と前に会ったことがあり、前にその声を聞いたことがあるということでしょう。「やあ」と声をかけられ、突然「ああ、きみか」と思いだすのは、昔いっしょに机を並べていたからですが、見知らぬ方の場合、いったいどこでその方と会っていたのか、いつその声を聞いていたのでしょう。それはまったく分かりません。どういうわけか「あっ、還相の菩薩だ」と想起し、どうしたことか「あっ、“なむあみだぶつ”の声だ」と想起するのです。

タグ:親鸞を読む
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