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前世と来世(まだつづく) [『浄土和讃』を読む(その53)]

(17)前世と来世(まだつづく)

 しつこいようですが、乗りかかった船です、考え続けましょう。今度は来世、死んだ後です。
 死にゆく人が「先に行ってるよ」と言うのも、あの世があるだろうという気がしているだけで、それには何の根拠もありません。これまで検討してきましたように、過去とはただそのように想起しているだけで、実体として存在しているのではないように、いや、それ以上に、未来なんてどこにも存在しません。わが家が明日もそのままあるだろうと信じて疑いませんが、それにも確かな根拠があるわけではありません。これまでずっとあったから、明日もまたあるだろうと思っているだけのことで、ひょっとしたら今夜のうちに忽然と消えるかもしれないのです。
 ラッセルの「5分前仮説」より「5分後に世界がすべて消滅するかもしれない」という仮説の方が信憑性があります。
 未来を信じる根拠は過去にしかありません。明日は晴れるだろうという予測は、過去のデータにもとづいています。今日の天気図によく似たケースをピックアップしてみて、そのあくる日の天気を調べると、10回のうち9回は晴れだった、ということから、明日晴れる確率は9割だと予測しているのです。したがって、もし明日がどしゃ降りだったとしても天気予報が外れたわけではありません。今回は、10回のうちの1回のケースだったというだけのことです。
 過去は想起されるだけであるように、未来は予測されるだけだとしますと、来世はどうなるでしょう。ぼくが生まれる前については、それを想起するための記憶も証言もありませんから、ただ想像するしかありませんが、同じように、ぼくが死んだ後も、それを予測するための手掛かりとしての過去のデータがまったくありませんから、これまたただ想像するしかありません。

タグ:親鸞を読む
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