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『浄土和讃』を読む(その58) ブログトップ

正定聚とは [『浄土和讃』を読む(その58)]

(22)正定聚とは

 それが次の和讃です。

 「安楽国をねがふひと 正定聚(しょうじょうじゅ)にこそ住すなれ 邪定(じゃじょう)・不定聚(ふじょうじゅ)くにになし 諸仏讃嘆したまへり」(第24首)。
 「安楽国をねがうひと、正定聚にぞさだまりて、邪定・不定聚かげもなし。諸仏弥陀をば讃嘆す」。

 もとの曇鸞の偈は「敢(すす)みてよく安楽国に生ずることを得れば みなことごとく正定聚に住す 邪定・不定その国になし 諸仏ことごとく讃じたまふ、ゆゑに頂礼(ちょうらい)したてまつる」とあります。この偈は第11願成就文「それ衆生ありて、かの国に生ずる者は、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかに。かの仏国の中には、もろもろの邪聚とおよび不定聚なければなり」にもとづいています。正定聚とはかならず仏になれることが約束された者、邪定聚は仏になれない者、不定聚はなれるかなれないか定まっていない者のことです。
 経には「生彼国者」とあり、これは伝統的に「かの国に生ずれば」と読まれ(「者」を「ば」と読んだのです)、正定聚に定まるのは安楽国に生まれてからと理解されてきました。曇鸞も「安楽国に生ずることを得れば(得生安楽国)」と言い、はっきり安楽国に生まれてからととっています。ところが親鸞はそれを明確に〈いま〉と読みます。「生彼国者」を「かの国に生まれんとする者は」と読むのです(『一念多念文意』)。この和讃では「安楽国をねがふひと」が正定聚に定まるとうたっています、〈いま〉今生で安楽国を願う人がすでに正定聚に住すると。
 親鸞の言うように、正定聚に定まるのは〈いま〉でしかない、ということを考えてみたいと思います。
 もし、伝統的な読み方のように、正定聚に定まるのが「安楽国に生ずることを得」た後だとするとどうなるでしょう。それは来世になって正定聚に定まるということですが、これまで述べてきましたように、未来とはどこかにあるわけではありません。それは予期することにおいてしか存在しようがありません。そして予期するのはあくまで〈いま〉です。したがって来世になって正定聚に定まるということは、来世に正定聚に定まると〈いま〉予期しているということに他なりません。

タグ:親鸞を読む
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