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おほきに所聞を慶喜せん [『浄土和讃』を読む(その60)]

(24)おほきに所聞を慶喜せん

 そのことが次の和讃でうたわれます。

 「十方諸有の衆生は 阿弥陀至徳の御名をきき 真実信心いたりなば おほきに所聞を慶喜(きょうき)せん」(第25首)。
 「生きとし生けるものたちは、南無阿弥陀仏のこえをきき、こころの底に沁みたなら、よろこびおのずとわきあがる」。

 もとの曇鸞の偈は「あらゆるもの阿弥陀の徳号を聞きて 信心歓喜して聞くところを慶び すなはち一念におよぶまで心を至すもの 回向して生ぜんと願ずればみな生ずることを得 ただ五逆と謗正法とを除く ゆゑにわれ頂礼して往生を願ず」とあり、この和讃はその前半をうたい(「聞くところを慶び」まで)、次の和讃が後半をうたいます。そしてこの曇鸞の偈は第18願成就文「あらゆる衆生、その名号をききて信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かのくにに生ぜんと願ずれば、すなはち往生をえ、不退転に住す。ただし五逆と誹謗正法とをばのぞく」(親鸞の読み)にもとづいています。
 ここで考えたいのは、「聞くところを慶喜せん」ということです。
 何を聞くかと言えば、もちろん名号、「南無阿弥陀仏」です。ところが世に出まわっている解説書を読んでいますと、しばしば「名号のいわれを聞く」と説明されています。名号を聞くのではなく、そのいわれを聞く、と。「南無阿弥陀仏」の声を聞いて直ちに信心歓喜するというのはいかにも不自然で、そこに込められている「意味」を聞いてはじめて信心歓喜することになるということでしょう。書物を読んだり、住職の話を聞いて、本願・名号のいわれを教えてもらい、「ああ、そういうことか」と納得できて、ようやく信心する運びとなると。しかし実際の信心歓喜とはそういうものでしょうか。
 名号のいわれを聞かせてもらうのと、名号そのものが聞こえてくるのとはまったく異なることです。名号のいわれは頭で理解することですが、名号そのものは「帰っておいで」という声としてドシンと心に届きます。名号のいわれを理解したとしても、名号そのものが心に届いているとは限りませんが、名号そのものが届いているときは、そのいわれはしっくり胸に沁み通ります。

タグ:親鸞を読む
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