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とくともつきじとのべたまふ [『浄土和讃』を読む(その64)]

(2)とくともつきじとのべまたふ

 龍樹の「空」を学んだ曇鸞が浄土経典のこうした記述を文字通りに受け取ったとは考えられません。
 この和讃のもとになっている曇鸞の偈を見ますと、こうあります。「安楽の菩薩・声聞の輩(ともがら)、この世界において比方なし。釈迦無碍の大弁才をもつて、もろもろの仮令(たとえ)を設けて少分を示し、最賎の乞人(こつにん)を帝王に並べ、帝王をまた金輪王(転輪聖王)に比ぶ。かくのごとく展転(てんでん)して六天(自在天)に至る。次第してあひ形(あらわ)すことみな始めのごとし。天の色像をもつてかれに喩(たと)ふるに、千万憶倍すともその類にあらず。みなこれ法蔵願力のなせるなり。大心力を稽首し頂礼したてまつる」と。
 曇鸞が注目したのは『無量寿経』の次のくだりです。「たとい、帝王、人中の尊貴にして、形色端正(たんじょう)なりといえども、これを輪転聖王と比ぶれば、甚だ鄙陋(ひる)となす。なおかの乞人の、帝王の辺(ほとり)に在るがごとし」。それに続いて、経はこう説いていきます、しかし輪転聖王といえども、これを忉利天王に比べると、そのありようはもう話にならない。さらに忉利天王も自在天王に比べれば、その差は百千億倍もある。そして安楽国の菩薩はいうと、その自在天王とも比ぶべくもないというのです。
 経典は、このような対比を連ねることによって、浄土のありようはこの娑婆世界のありようとは比較を絶していると説いているに違いありません。曇鸞はそこから、浄土というものは、この世界のありさまをどれほど拡張しようとも、とうてい思いはかることができるような世界ではないと述べているのです。先の和讃に続く次の和讃も、この曇鸞の偈にもとづきこうあります。

 「安楽国土の荘厳は 釈迦無碍のみことにて とくともつきじとのべまたふ 無称仏を帰命せよ」(第28首)。
 「弥陀の浄土のうるわしさ、釈迦の弁舌もってして、どれだけ説くもなおたらず。無称仏にぞ帰命せん」。

 浄土の素晴らしいありさまは、釈迦の弁才をもってしても、ときつくすことはできないというのです。

タグ:親鸞を読む
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