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已今当の往生は [『浄土和讃』を読む(その67)]

(5)已今当の往生は

 「無限なるもの」としての浄土については、ただ否定的に(「~でない」と)語ることができるのみで、肯定的に(「~である」と)語ることはできないということです。
 次の和讃はこううたいます。

 「已今当(いこんとう)の往生は この土の衆生のみならず 十方仏土よりきたる 無量無数不可計(ふかけ)なり」(第29首)。
 「はてなくつづく往生は、娑婆の衆生だけでなく、あらゆる国の仲間たち、その数はかることできず」。

 「已今当」とは「過去・現在・未来」ということですから、時間的(已今当)にも空間的にも(十方仏土)限りなく、無量無数の衆生が安楽国に往生し、その数を計ることができないというのです。
 安楽国に往生する衆生は無量無数であるということを、安楽国には「無量無数の衆生」が往生していると理解するのではなく、安楽国に往生する衆生の数を数え尽くすことはできないと理解すべきです。同じじゃないかと言わないで下さい。安楽国には「無量無数の衆生」が往生しているとしますと、どうしてもこの娑婆世界とは別にそのような特別な世界があるとイメージしてしまいます。でも、安楽国に往生する衆生は、時間的にも空間的にも限りなく、その数を計ることはできないとしますと、この娑婆世界も安楽浄土と別ではなく、その中にすっぽり包み込まれます。
 「無限なるもの」が〈存在する〉としますと、それは「有限なるもの」とは別にどこかにあることになります。しかし「有限なるもの」とは別にある「無限なるもの」とはもはや無限とは言えず(なぜなら「無限なるもの」の外にまだ何かが存在するということは、それは「無限」ではないということです)、あらゆる「有限なるもの」をその内に包み込んではじめて無限の名に値します。無限については、「限りが〈ない〉」、つまりどこまでも「有限では〈ない〉」としか言うことができないのです。

タグ:親鸞を読む
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