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『浄土和讃』を読む(その72) ブログトップ

無数の菩薩ゆきたまふ [『浄土和讃』を読む(その72)]

(10)無数の菩薩ゆきたまふ

 次の和讃に進みます。

 「神力無極(むごく)の阿弥陀は 無量の諸仏ほめたまふ 東方恒沙(ごうじゃ)の仏国より 無数(むしゅ)の菩薩ゆきたまふ」(第32首)。
 「弥陀のちからは果てもなく、無量の諸仏ほめたたえ、東の国の菩薩たち、その数しれずゆきたまう」。

 もとの曇鸞の偈は「神力無極の阿弥陀は 十方無量の仏の歎じたまふところなり 東方恒沙の諸仏の国 菩薩無数にしてみな往覲(おうごん)す」で、往覲とは「往きて見たてまつる」という意味ですから、無量の諸仏が無量寿仏の威神力をほめたたえるだけでなく、東方諸国の無量の菩薩が安楽国に往って無量寿仏にお目にかかるというのです。
 曇鸞の偈のもとになっている『無量寿経』には次のようにあります。「無量寿仏、威神きわまりなし。十方世界の無量・無辺・不可思議のもろもろの仏・如来、称歎(しょうたん、ほめたたえる)せざるものなし。かの東方の恒沙の仏国における無量・無数のもろもろの菩薩衆、みなことごとく無量寿仏の所(みもと)に往詣(おうげい)して、恭敬(くぎょう)し供養し、もろもろの菩薩・声聞の大衆に及ぼす。経法を聴受し、道化(仏道を教化すること)を宣布す。南・西・北方、四維(東南、西南、西北、東北)、上・下もまたまたかくのごとし」。
 これを見ますと、諸国の無数の菩薩衆が無量寿仏のもとに吸い寄せられるように往詣するのは、その国を慕い、そこに安住するためではなく、また諸国に戻ってきて、無量寿仏の本願と名号を宣布するためだということが分かります。かくしてこの和讃は、すでに第17首、第18首で讃えられていた「還相の菩薩」を新たな角度からうたっていると言えるでしょう。われらの住む世界のみならず、十方世界(ひとつ前の和讃にありましたように、われらの世界は大千世界の中の一つの小世界にすぎません)において還相の菩薩が弥陀の本願・名号を宣布し、衆生を教化しているのだと。
 そこでこの機会にあらためて「往きて、還る」ということを考えてみたいと思います。往相と還相は、ともすればそこで足を絡めとられてしまう問題です。

タグ:親鸞を読む
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