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往きて、還る [『浄土和讃』を読む(その73)]

(11)往きて、還る

 「往きて、還る」と言いますと、当然、空間的な移動を思い浮かべます。名古屋から東京へ行き、そして東京から名古屋に帰るというように。ぼくらの頭はものごとを三次元の空間の中において考えるように設えられていると言わざるをえません。そして空間において、あるとき点Aに存在するものは、同時に点Bに存在することはできません。いま名古屋にいる人は、同時に東京にいることはできない。これは「どうして?」と問うことではなく、ぼくらがものごとを空間的に考えるということに含まれている約束事と言うべきでしょう(アリバイ証明はこの約束事を前提として成立します)。
 したがって娑婆世界から安楽浄土へ「往きて、還る」ということは、〈まず〉こちらからあちらへ往き、〈しかるのちに〉あちらからこちらへ還るということです。さてしかし、そうとしますと、ぼくらは〈いま〉こちらからあちらへ往きつつあるとしますと、あちらからこちらへ還るのは〈これから先〉のことになります。〈いま〉名古屋から東京に向かっているのでしたら、東京から名古屋に帰るのは〈あす〉になるでしょう。かくして往相と還相は別のものとして切り離されます。
 ところで往相とは自利で、還相が利他ですから、往相と還相が別のものとしますと、自利と利他とが別ものとなり、「〈まず〉自分のために」、「〈しかるのちに〉他人のために」と切り離されてしまいます。「まず自分のため、しかるのちに他人のため」となるのはごく普通のことのように思えます。自分が困っていては、他人のことを考える余裕がありませんから、まずは自分のことに力を注ぎ、その上で他人のためにとなるのが自然です。さてしかしいま問題となっているのは「救い」です。「こころの平安」と言ってもいい。もっと言えば「このまま生きていていいという安心」の問題です。これもまた「まず自分、しかるのちに他人」でしょうか。

タグ:親鸞を読む
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