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『浄土和讃』を読む(その76) ブログトップ

菩薩たちの「南無阿弥陀仏」の声が [『浄土和讃』を読む(その76)]

(14)菩薩たちの「南無阿弥陀仏」の声が

 次の和讃です。

 「十方の無量菩薩衆 徳本うゑんためにとて 恭敬(くぎょう)をいたし歌嘆す みなひと婆伽婆(ばがば)を帰命せよ」(第34首)。
 「十方無量の菩薩たち、功徳のもとを植えようと、恭しくも念仏す。みなひと弥陀に帰命せん」。

 これは先の和讃のところで言及しました「往覲偈」の一節、「一切のもろもろの菩薩、おのおの天の妙華と、宝香と無価(むげ、価格をつけられぬほど)の衣とをもって、無量覚を供養したてまつる。咸然として(げんねん、一斉に)天の楽を奏し、和雅の(わげ、優雅な)音をちょう発し(のびのびした音を出す)、最勝尊を歌歎(かたん)して、無量覚を供養したてまつる」にもとづいています。
 安楽浄土に往覲した菩薩たちは、華・香・衣をもって無量寿仏を供養し、また楽を奏で、のびやかな声で無量寿仏を歌い讃えるというのです。和讃に「徳本うゑんためにとて」とありますのは、曇鸞の偈にもとづいていまして、徳本とは「功徳のもと」という意味ですから、「功徳のもとである名号をとなえて」ということでしょう。また「婆伽婆」とありますのは「バガヴァット」の音写で、世尊と訳され、いまは無量寿仏を指します。
 さてこの和讃から、浄土の菩薩衆が称える「南無阿弥陀仏」の声が聞こえてこないでしょうか。菩薩衆は十方世界から安楽浄土へ往き、そこで「南無阿弥陀仏」を称えているに違いありませんが、しかしそれはわれらにとって縁遠い世界の話ではありません。菩薩衆があちらへ往くことは、とりもなおさずこちらに還ることですから、その「南無阿弥陀仏」の声はわれらの耳に直に届いているはずです。
 第17願が思い起こされます。「たとひわれ仏をえたらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ、ほめる)してわが名を称せずといはば、正覚をとらじ」。これは諸仏が「南無阿弥陀仏」と称えることを願うという内容ですが、諸仏の「南無阿弥陀仏」を聞いた菩薩衆は歓喜踊躍して安楽浄土に来生し、そしてそれをまたそれぞれの仏国において一切衆生に聞かしめるのですから、諸仏の称名は無量の菩薩衆の称名と一体であると言わなければなりません。

タグ:親鸞を読む
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