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生命は [『浄土和讃』を読む(その77)]

(15)生命は

 それがもっと分かりやすいのが、『大阿弥陀経』の第4願です。「みな諸仏をして、おのおの比丘僧大衆(だいしゅ)のなかにして、わが功徳国土の善をとかしめん。諸天人民蜎飛蠕動(けんびねんどう、昆虫)のたぐひ、わが名字をききて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわがくにに来生せしめ、この願をえて、いまし作仏せん」。この経典は『無量寿経』の古層ともいうべきもので、『無量寿経』は四十八願を上げますが、この経典では二十四願です。そして『無量寿経』の第17願と第18願に当たるものが第4願の中に一体化されており、その点でも示唆に富みます。
 諸仏の称える「南無阿弥陀仏」が菩薩衆に届き、そして菩薩衆の称える「南無阿弥陀仏」が諸天・人民・蜎飛蠕動のたぐひに届けられる。かくして「南無阿弥陀仏」は世界の隅々にまで行き渡ることになります。名号というものは不特定の多数に拡声器のようなもので届けられるのではなく、一人ひとりに口づてに届けられるもので、そこにはやはり「還相の菩薩」の姿がなければなりません。あるときある人が「還相の菩薩」として現れ、「南無阿弥陀仏」を届けてくれるのです。
 前にも持ち出したことがありますが、吉野弘の「生命は」という詩は「還相の菩薩」をうたっていると読むことができるのではないでしょうか。

 生命は
 自分自身だけでは完結できないように
 つくられているらしい
 花も
 めしべとおしべが揃っているだけでは
 不充分で
 虫や風が訪れて
 めしべとおしべを仲立ちする
 生命は
 その中に欠如を抱き
 それを他者から満たしてもらうのだ
 世界は多分
 他者の総和
 しかし
 互いに
 欠如を満たすなどとは
 知りもせず
 知らされもせず
 ばらまかれている者同士
 無関心でいられる間柄
 ときに
 うとましく思うことさえも許されている間柄
 そのように
 世界がゆるやかに構成されているのは
 なぜ?

 花が咲いている
 すぐ近くまで
 虻の姿をした他者が
 光をまとって飛んできている
 私も あるとき
 誰かのための虻だったろう
 あなたも あるとき
 私のための風だったかもしれない

タグ:親鸞を読む
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