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『浄土和讃』を読む(その82) ブログトップ

阿弥陀仏に遇う [『浄土和讃』を読む(その82)]

(20)阿弥陀仏に遇う

 「見ることの帝国主義」は、存在するものは何らかのかたちで見えるはずであり、どのようにも見えないものは存在しないと宣言しますが、さて「無限」はどのようにも見えません。見えたと思った瞬間、それはもう有限です。では「無限」は存在しないのでしょうか。しかし次の和讃は「真無量(真の無限)を帰命せよ」とうたいます。

 「神力本願及(ぎゅう)満足 明了堅固究竟願(くきょうがん) 慈悲方便不思議なり 真無量を帰命せよ」(第38首)。
 「阿弥陀如来の威神力、浄土の調度しつらえる。慈悲方便のなせるわざ、真の無限に帰命せん」。

 この和讃のもとは『無量寿経』の次の一節、「これみな無量寿仏の威神力のゆえに、本願力のゆえに、満足願のゆえに、明了願のゆえに、堅固願のゆえに、究竟願のゆえなり」にあります。「これみな」とは浄土の荘厳をさし、すべて弥陀の本願力の致すところであり、慈悲方便(手立て)のなせるわざであると述べているのです。
 この和讃は阿弥陀仏を真の「無限(無量)」として、それに帰命せよとうたいます。阿弥陀仏はどのようにも見えません。しかし、たとえ「見ることの帝国主義」が何と言おうと、阿弥陀仏に帰命せよと言う。なぜなら阿弥陀仏に「いま、ここ」で遇ったからです。遇ったと言っても、その姿を見たわけではありません。くどいようですが、「無限」である阿弥陀仏は見えません。見えた途端にそれはもう「無限」ではなくなっています。無限であるはずの阿弥陀仏の外にそれを見ている自分がいるのですから。
 ではどうして遇ったと言えるのか。
 その声が聞こえたのです。「帰っておいで」という本願の声が聞こえてきて、その声にゲットされたのです。その声に包み込まれ(摂取され)、そのとき声と自分は一体です。これが阿弥陀仏に遇ったということです。

タグ:親鸞を読む
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