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光は見えない [『浄土和讃』を読む(その86)]

(3)光は見えない

 「こちらにわれら、向こうに仏」ではないということをこれまで縷々述べてきました。われらが無量光仏を「見る」となりますと、主客が分離し「こちらにわれら、向こうに無量光仏」となり、その結果「こちらに娑婆、向こうに浄土」、あるいは「まず往相、しかるのちに還相」となって、これまで述べてきたことがすべて台なしになります。「いま、ここ」という急所が外れてしまうのです。「むかしの本願がいまはじまる」のでなくなってしまいます。
 しかし、われらが無量光仏を見るのではありません。そもそも光は、それを見ようとしても見えるものではありません。
 ぼくらに見えるのは光に照らされているもので、光そのものは見えません。宇宙空間に出ますと、無数の星たちが輝いて見えますが、光そのものは見えず、だから宇宙空間は漆黒の闇です。こんなふうに光そのものは見えませんが、それでも光に照らされていると感じることはあります。たとえば、月光そのものは見えませんが、でも光に包まれていると感じ、ふと見上げるとそこに月が輝いている。このように、光に包まれるのを感じることと、光に照らされているものを見るのとは別のことです。
 仏教では六根(眼耳鼻舌身意)に対して六境(色声香味触法)を対応させます。これによりますと、眼は色(かたちあるもの)を「見る」、耳は声を「聞く」等々です。この対応をよくよく見ますと、「眼―色」だけが、「耳―声」、「鼻―香」など他の対とはどこか違っていることに気づきます。声や香や味などは、耳や鼻や舌などに(向こうから)届けられてはじめて感じることができますが、色だけは(こちらから)眼を向けることによりはじめて「見る」ことができます。
 感受性と言いますように、向こうからやってくるものを受けとるものですが、眼だけはこちらから向かっていくのです。「見ることの帝国主義」がこのことに関係するのは言うまでもありません。

タグ:親鸞を読む
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