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光明と名号 [『浄土和讃』を読む(その90)]

(7)光明と名号

 金子大栄氏は、月とその光の譬えで、阿弥陀仏とその本願の関係を教えてくれました、月(阿弥陀仏)ははるか彼方(西方十万億土)にあれども、その光(本願)は「いま、ここ」に届いていると。第43首と第44首は、その光こそが仏に他ならないことを教えてくれます、「一々のはなのなかより」やってくる「三十六百千億の光明」が仏身であり、「つねに妙法をときひろめ」ているのだと。
 ぼくらは仏と聞きますと、形あるものを思い浮かべます。どうしても眼で見ようとするのです。それが「見ることの帝国主義」であることをこれまで縷々述べてきました。しかし、仏とは光であり、声であるということ、阿弥陀仏とは光明であり、名号であるということ、これを肝に銘じなければなりません。光明とは別にどこかに阿弥陀仏がいるわけではなく、名号とは別にどこかに阿弥陀仏がいるわけでもありません。
 光明も名号も見えません。前に言いましたように、ぼくらに見えるのは光に照らされたもの(色)であって、光そのものを見ることはできません。光そのものは向こうから届くのであり、こちらから見るのではありません。名号も、本尊として仏壇に掲げられている「南無阿弥陀仏」の六文字は見えますが、名号そのものは「なむあみだぶつ」の声であり、これは向こうから聞こえてくるものであって、こちらから見るものではありません。
 因みに、親鸞は『行巻』において、名号を往生の因、光明を縁とし、この因縁が揃って往生することができるとした上で、さらに信心が内因、光明・名号が外縁として揃うことが必要だと、おもしろい言い方をしていました。そもそも光明と名号がなければ、つまりは本願がなければ往生がないのは当然ですが、光明・名号があっても、信心がなければ詮無いということです。しかし、だからといって、向こうからやってくる光明・名号にこちらからわれらが信心をつけ加えるということではありません。向こうからやってくる光明・名号がわれらに信心を与えてくれるのです。

タグ:親鸞を読む
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