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『浄土和讃』を読む(その103) ブログトップ

仏教は理論か [『浄土和讃』を読む(その103)]

(5)仏教は理論か

 もう少し「本願のリレー」ということについて考えたいと思います。仏教とは「無我」や「空」の理論であるというのと、仏教の本質は「本願のリレー」にあるというのとでは、まったく相容れないような印象があり、どこにも接点が見いだせないように感じます。
 仏教を理論として捉えるとき、それは釈迦という固有名詞と結びつきます。「イデア論」がプラトンの理論であるように、「無我」は釈迦の理論であると。理論というのは、ある時、ある人が打ち立てたものです。かくして世界には空間的にも時間的にもさまざまな理論がそれを打ち出した人物の名とともに並び立ち、その優劣を競い合っているような観があります。
 ぼくは哲学に関心を抱き続けてきた人間ですが、哲学という世界は、新しい理論が次から次へとめまぐるしく登場してきて、その流行すたりが激しいところです。ぼくの学生時代はマルクス主義と実存主義が覇を競っていましたが、そのうち構造主義が登場してきて注目を浴びたと思いきや、ポストモダンという名のもとにさまざまな理論が百花繚乱で、ひとつの理論を消化しきれないうちに、もう次の新しい理論が現われてくるといったありさまです。
 このあいだ読んだ本(鷲田清一『哲学の使い方』)に、カール=レーヴィットの日本哲学に対する批評がこんなふうに紹介されていました、「日本人はいってみれば二階建ての家に住んでいて、一階では日本的に思考したり感覚したりしているが、二階にはプラトンからハイデッガーにいたるまでヨーロッパの学問が紐に通したように並べてある」と。日本の哲学研究者に対する痛烈な皮肉ですが、これをもっと広く理論というもの一般に当てはめることはできないでしょうか。つまり、二階では「理論のことば」が使われるが、一階では「生活のことば」を使っていて、その二つがはっきり棲み分けられていると。
 さて、浄土教は仏教を空や無我といった「理論のことば」から、願い(本願)という「生活のことば」へと翻訳する試みではないでしょうか。あるいは高踏な「理論のことば」を泥臭い「生活のことば」へ取り返す試みと言えるのではないか。

タグ:親鸞を読む
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