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「はじめはない」が「はじめがある」 [『浄土和讃』を読む(その106)]

(8)「はじめはない」が「はじめがある」

 カントは「はじめがない」も「はじめがある」も誤りであるとしましたが、どちらも正しいと言うこともできます。
 永遠にはじめがあれば、それはもう永遠ではありません。しかし永遠について何かを語ろうとしますと、それははじめを持たざるをえません。そして永遠について何かを語ってはじめて、永遠は何ものかになるのであり、もし何も語らなければ、それは存在しないということです。永遠にはじめはありませんが、それを語ることにははじめがあり、そして永遠を語ることにより永遠ははじめて姿をあらわします。かくして「はじめはない」が、しかし「はじめがある」のです。
 弥陀の本願にはじめはありませんが、弥陀の本願について何かを語ろうとしますと、それははじめをもちます。そして弥陀の本願は、それについて何かを語ることによりはじめて姿をあらわすのです。釈迦が弥陀の本願について語ることで、弥陀の本願が姿をあらわしました。こうして弥陀の本願がはじまりをもったのですが、釈迦以前から弥陀の本願があったのは言うまでもありません。釈迦が語るところによりますと、それは法蔵菩薩が本願を立て、それが成就したときにはじまります。
 では、それ以前は?
 法蔵が本願を立てたのだから、そこがはじまりに決まっているではないか、としてしまいますと、それはもはや久遠の本願でなくなることはすでに述べました。そこで、釈迦の語り、すなわち『無量寿経』の説くところをよくよく聞いてみますと、法蔵も久遠の昔から連綿とつづく本願について語っているのであって、決して自分ではじめて本願を創り出したわけではないことが分かります。
 そのことをうたうのが次の和讃です。

タグ:親鸞を読む
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