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ひかりに遇う [『浄土和讃』を読む(その108)]

(10)ひかりに遇う

 永遠はそこに「はじめ」が穿たれることでそのつと姿をあらわします。「はじめ」が穿たれるとは、永遠に「気づく」ことに他なりません。
 久遠の本願に気づくことを言い表すのに、「弥陀の名号に遇う」と言ったり「弥陀の光明に遇う」と言ったりします。不思議な「こえ」が聞こえたり、不思議な「ひかり」を感じたりするということです。次の和讃は不思議な「ひかり」をうたいます。

 「無碍光仏のひかりには 清浄(しょうじょう)・歓喜(かんぎ)・智慧光 その徳不可思議にして 十方諸有を利益せり」(第57首)。
 「どんな障りもないひかり、貪欲・瞋恚また愚痴を、照らしその根を断ち切って、衆生に安慰あたえたり」。

 阿弥陀仏がひかりの仏であることについては、すでに「讃阿弥陀仏偈和讃」で十二光のすべてがうたわれていました。ここでは十二光の中でとくに「清浄光」・「歓喜光」・「智慧光」が取り上げられ、「その徳不可思議にして、十方諸有を利益」するとうたわれます。古写本の左訓によりますと、清浄・歓喜・智慧は、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒に対応するようで、清浄光は貪欲の毒を、歓喜光は瞋恚の毒を、そして智慧光は愚痴の毒を取り去ってくれるということです。
 さてしかし不思議なひかりに遇うことで、欲、怒り、愚かさの毒が消えるというのはどういうことか、あらためて考えてみたいと思います。
 ひかりに遇うといいますのは、いままで気づいていなかったことにふと気づかされたとき、ひかりに照らされるように感じることです。漫画でも、何か素晴らしいアイデアが浮かんだようなとき、吹き出しで電球がパッとつく絵柄がかかれたりしますが、突然ひかりが灯った感じを表現しているのでしょう。親鸞はよくひかりとは智慧のことであると言いますが、思いがけない智慧をいただくのがひかりに遇うということです。
 いままで気づいていなかったことにふと気づかされると言いましたが、いったい何に気づかされるのでしょう。そのことでどうして欲、怒り、愚かさの毒が消えるのでしょう。

タグ:親鸞を読む
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