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真実報土の因は [『浄土和讃』を読む(その111)]

(13)真実報土の因は

 次の和讃です。

 「至心・信楽・欲生と 十方諸有をすすめてぞ 不思議の誓願あらはして 真実報土の因とする」(第58首)。
 「至心・信楽・欲生も、弥陀のすすめあってこそ。不思議な誓いたてられて、諸有の往生さだまりぬ」

 「不思議の誓願」が第18願をさしていることは「至心・信楽・欲生と」の初句で分かります。「十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念(十方の衆生、心をいたし信楽してわがくににむまれんとおもふて、乃至十念せん)」というこの第18願に48願の核心があることは浄土教諸家の一致するところですが、多くは「乃至十念」に注目したのに対して、親鸞は「至心信楽」に眼を向けました。往生の因は「至心信楽」にあると見たのです。
 少し前のところで(4回―28)行巻に説かれている「二重の因縁」に触れました。名号が因、光明が縁となって往生という果が生まれるのはもちろんですが、しかし、そこに信心という因がなければなりません。したがって最終的には、信心が因、名号・光明が縁となり果が生じるのだということでした。この微妙な関係についてあらためて思いを廻らしてみたいと思います。
 ひかりがなければ往生がないのは当然ですが(これが一重の因縁)、でも、ひかりはそれに遇わなければ存在しません。そしてひかりに遇うということが信心ですから、信心がなければ往生はないということになります(これが二重の因縁)。やはり往生の因は信心です。さてここから、「そうか、あらゆるもの(名号も光明も、そしてもちろん往生も)が弥陀から与えられると言っても、信心だけはわれらの側に残されているのだ」と考えますと、すべてが台無しになってしまいます。
 そこで親鸞は「至心・信楽・欲生と 十方諸有をすすめてぞ」とうたいます。勧めるとは与えることに他なりません。名号、光明のみならず、信心もまた与えられるのです。「賜りたる信心」です。ここでしかし深刻な疑問が生まれます。

タグ:親鸞を読む
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