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すなはち定聚のかずにいる [『浄土和讃』を読む(その113)]

(15)すなはち定聚のかずにいる

 「蜎飛蠕動のたぐひ」に至るまで本願を喜んでいるようにみえるのに、どうしてわれら人間には「無量億劫にも値い難」いのか。
 そこには見えないバリアがあるに違いありません。われら人間が進化の過程で手に入れた何かが、本願の気づきを妨げるバリアになっているのでしょう。たとえば「時間」。ぼくらは現在・過去・未来という時間の観念を手に入れました。それはぼくらの生活を安定させるのにはかり知れない力となったことでしょう。でも、その反面、してしまったこと(過去)を後悔し、まだしてもいないこと(未来)を思い煩うようになりました。そして本願の気づきを妨げるバリアをはってしまった。
 しかし、どんなバリアがあろうと本願のひかりと名号はぼくらに届けられています。そして届いたと思えた瞬間、喜びが込み上げます。それをうたうのが次の和讃です。

 「真実信心うるひとは すなはち定聚のかずにいる 不退のくらゐにいりぬれば かならず滅度にいたらしむ」(第59首)。
 「まことの信をうるひとは、そのとき定聚にかぞえられ、浄土の籍をえたからは、すでにほとけとひとしけり」。

 この和讃は第11願をうたっています。「たとひわれ仏をえたらんに、くにのうちの人天、定聚に住し、かならず滅度にいたらずば正覚をとらじ」。「定聚のかずにいる」ことと「不退のくらゐにいる」ことは同じで、「かならず滅度(悟り)にいたる」ということです。
 バリアをくぐってやってきたひかりに遇うとき「遇ひがたくしていま遇ふことをえたり」という喜びに包まれます。そのとき「すなはち定聚のかずにいる」のです。いや、遇うことができた喜びが、そのまま定聚のかずにいることで、このふたつは別のことではありません。そして定聚のかずにいるとは、かならず悟りを得るということです。悟りを得るのは「これから」のことであっても、定聚のかずにいるのは「ただいま」であり、そのことに千金の値打ちがあります。三毒が消えるのはこれからであっても、「三毒をもったまま生きていていい」といま聞かせてもらうことに意味があるのです。

タグ:親鸞を読む
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